DIPS

  • DIPSのプロジェクト 昭和43年(1968年)から昭和46年(1971年)暮れまで、私は電電公社のデータ通信用の大型コンピュータの仕事をしていました。

    DIPSとは

    DIPS とは 電電公社のデータ通信用の汎用コンピュータ(Denden Information Processing System)、電電公社仕様のコンピュータです。 電電公社では古くから、コンピュータの研究をしており、富士通が FACOM-201のお手本にした、「MUSASINO 1号」 は、昭和30年代に稼働していました。
    しかし、その後は、コンピュータの開発よりも電子交換機の開発が中心となり、公社自前のコンピュータはありませんでした。 データ通信の分野の発展にともない、電電公社では民間のコンピュータをそれぞれに採用していましたが、 ここにきて、急遽電電公社仕様のコンピュータを作ることになったのです。

    1968年10月ころからその仕様検討が始まりました。電電公社の通信研究所が中心になり、メーカとしては、 富士通と日立と日電が加わりました。

    DIPS-1の開発

    1969年暮れには仕様がきまりました。 仕様がきまると、試作機をつくることになり、同一仕様で3社に試作機1システムずつ発注されました。 同じ仕様で開発競争をすることになったのです。

    当時の富士通は、230-60というコンピュータを持っており、データ通信分野には大きな実績をもっていました。 230-60の論理回路は高速TTLで、速度が足りないということで、DIPS のCPUの論理回路としては、Current Mode Logic(CML)を使うことになりました。
    富士通は当時は、純国産メーカを標榜して独自で頑張っていましたが、日立はRCAと 日電はハネウエルと 提携関係にあり、テクノロジは進んでいると見られていました。
    CMLはCS(Current Switch)とも呼ばれ、 古くから高速の論理回路として知られ、IBM7090などは、 トランジスタを使ったCMLが基本回路になっています。RCAのSPECTRA シリーズはCMLでした。

    富士通では、過去にCMLを使った経験がなく、この時初めて使うことになったので、随分苦労しました。 CMLはトランジスタを不飽和で使い、かつ信号レベルが低いので、高速の論理回路を実現できます。 しかし、消費電力が大きい割りには、信号レベルが低いので、ノイズの問題がありました。 また、信号は終端抵抗を使って、インピーダンスマッチングをする方法で伝送しますが、これまでの TTLではハイインピーダンスの無終端方式だったので、方式的に全然違い、最初は戸惑いました。 プリント板は多層プリント板を使いましたが、バックバネルはディスクリート配線のものを使いました。 RCAがすでに、多層プリント板のバックバネルを使ってたので、日立はそれを使ったのに比べると大きな技術的劣勢でした。

    DIPSは方式的には、IBM360の影響を受けたシステムになっています。DIPSがマルチCPUだったことなど特徴はありましたが、 この時の標準であった360が検討のベースになりました。 CPUはキャッシュメモリをもっていました。これは当時のIBM 360-85の影響によるところが大きいと考えられます。

    富士通ではCPUのE-unit(演算制御装置)には、ROMをつかったマイクプログラム制御を使いました。ROMとしては、 メッキ線をつかった薄膜メモリの非破壊読み出しを利用したメモリでした。富士通では、マイクロプログラムを使った 最初の機械でした。

    入出力装置との接続方式としての I/Oインターフエイスも、IBM類似でIBMコンパチではありませんでした。
    そのために、富士通も日立も、後でIBM互換路線になった時にも、I/O制御装置はインターフェイスが違っているため 別につくらなくてはならないので苦労しました。
    実は富士通でも、本体がM-シリーズになってIBM互換になる前に、DASD(ハードディスク)の部分では、IBMのものを そのまま使うことが行われ、そのために230-60にもIBMインターフェイスのチャネルを持っていました。
    このように、DASD での IBM の優位性は非常に大きかったのでした。

    DIPS-1の設計作業は1970年初めからおこない、8月ころには、回路図が完成して、それからプリント板の設計、製造にかかりました。 このプリント板はそれまでの、TTLとは違い、信号レベルも低く、また、信号を終端抵抗で終端するためプリント板のバターン設計も まったく新しいものでした。 プリント板のパターンの計算機による設計、素子や終端抵抗のアサインなど、当時はいろいろとDAの担当者と議論をしたのを覚えています。

    装置自体が非常に大きく、速い開発が要求されたので、設計は非常に大変でした。設計の人数を揃えるのには苦労をしました。 富士通では、社運を賭けるという意気込みで当たりましたので、大変でしたが、全員の協力が得られました。

    チャンネルコントロールという、メモリとチャンネルの間にある装置の設計がうまくいっていないことが、途中でわかり、 設計のやり直しをしました。試験にはやり直しの装置は遅れるので、最初の装置で試験を進め、あとで交換するということにしました。

    1971年1月から5月まで、川崎工場で試験調整を行いました。 正月の休みにも会社にでて、試験をやりました。
    持ち込んだ電熱器で、お餅を焼いて食べたのを覚えています。

    DIPS-1Lの立ち会い検査

    1971年5月25日より電電公社の立ち会い試験を始めて、 6月5日 首尾よく終了しました。

    3社の中で富士通が一番でした。富士通の後で、日立の立ち会いがありました。 日電は開発が遅れてしまい、半年くらいあとで、通研に搬入されました。 通研には、それぞれのメーカの機械を設置するスペースがとってあり、日電のスペースは長らく空いていました。

    富士通の機械は開発は一番早かったのですが、論理回路の発熱量が多くCPUの大きさは3社の中では一番大きく 電力消費も一番でした。これは、CMLの経験がなかったなど、高速のテクノロジが劣勢だったと考えられます。

    また、開発が一番早かったのは、DAなどのサボートなど設計技術が優れていたということがいえます。 我々が試験を開始する前に、日立の機械は試験を開始しているという噂が入ってきました。
    富士通の方が遅く試験を開始したのですが、早く収束しました。多分、論理シミュレーションなどのために、設計のミスが少なく、早く動いたのではないかと 今では思っています。


    このDIPS-1Lと呼ばれた、三つの会社の試作機はは三鷹にある通研に運ばれて設置され、主としてソフトの開発に使われました。

    DIPS のソフトは、ハードとは違い、3社が分担して開発しました。

    DIPS のシステムは、このDIPS-1のあとに、新しいシリーズが継続して開発され、 電電公社のコンピュータシステムとして、電電公社の提供するデータ通信のシステムにその後大量に使われてきました。